雲光院由来・沿革
 徳川家康公の側室阿茶局の菩提寺として、慶長十六年(1611年)阿茶局自らの発願により、増上寺の高僧であった潮呑上人を開山上人(初代住職)として仰ぎ開創されました。阿茶局の法號「雲光院」がそのまま寺の名称になりました。
 
 開創地は中央区馬喰町付近でありましたが、明暦三年(1657年)の大火に被災し、神田岩井町に替地となり、天和二年(1682年)現在の深川の地に再び替地となりました。
 
 阿茶局の徳川家、江戸幕府への比類の無い功績のため、家康公はじめ三代の将軍より、手厚い擁護を受け、朱印社領(しゅいんしゃりょう)も賜り、一時は寺領内に塔頭寺院( たっちゅうじいん 末寺)を十九カ寺(後に合併して十カ寺)、埼玉にも末寺を二カ寺擁した本坊寺院でありました。堂内には、神君家康公肖像、阿茶局肖像など多くの宝物、什物が安置されていました。
雲光院由来・沿革
 その後、江戸時代には幾度かの火災に遭い、本堂等の焼失もありましたが、その度に復興、明治政権下では、幕府の擁護もなくなり、厳しい時代に入りました。塔頭寺院もそれぞれ分離独立し、雲光院も塔頭寺院数カ寺を吸収合併し、容を新たに生まれ変わりました。
 
 明治後期、大正期では、徐々に隆盛を取り戻してきましたが、大正十二年の関東大震災により本堂倒壊、住職死亡などの悲劇に遭い、昭和二十年の太平洋戦争・東京大空襲により再び全堂宇が焼失しました。震災・戦災の二度の被災によりご本尊のみならず過去帳、宝物なども全て焼失してしまいました。
 
 戦後、昭和二十二年に本堂の再建を果たしました。以後復興期、高度成長期を経て、平成の世となり、本堂、客殿等の老朽化に伴い、平成六年五月廿一日に本格的な新本堂、新客殿建立が完遂いたしました。
 
 平成の大事業は、雲光院開創四〇〇年の記念事業の一環として行われ、法然上人、阿茶局はじめご先祖への報恩謝徳と未来への基盤づくりが達成されました。
沿革
雲光院開山
潮呑上人(ちょうどんしょうにん)
源蓮社住譽信入潮呑上人
 天正七年(1579年)武蔵埼玉郡に生まれ、増上寺の高僧観智国師存応上人に三十余年師事し、宗戒の奥義を究めた高僧です。雲光院の開山上人(初代住職)となり、後には京都新黒谷金戒光明寺第二十八世となって、阿茶局とともに宗教の東西連携、宗教政策の充実にも多大な功績を残されました。慶安三年(1650年)四月十三日、七十三歳で往生されました。
 
本尊 阿弥陀如来(推定 平安末期作)
 戦災で焼失した旧ご本尊に代わり、三河大樹寺より遷座されました。
 平成六年に脇侍二体(聖観音菩薩・勢至菩薩)を迎え、弥陀三仏となりました。
 
雲光院の境内
阿茶局の墓
江戸初期 賓篋印塔
庄司甚内の墓
(甚右衛門)
江戸初期 新吉原造営・改革の一人者
後藤三右衛門の墓
江戸後期 天保の改革、金座改革の要人
初代 竹本超路太夫の墓
江戸末期 義太夫節発展の功労者
六字名号供養塔
江戸初期 祐天上人の名号
弁天社・弁天池
江戸初期 雲光院の鎮守宮
稲荷社
由来江戸初期 雲光院の鎮守宮
阿茶局肖像画
昭和中期 局 六十歳時の肖像
法然上人像
昭和後期 浄土宗開宗八百年記念